アフリカの奥地で黒人の医療に一生を捧げた「シュバイツァー」
(シュワイツァー)は,第一次世界大戦の時,人類の文化の退廃を強く
感じ,文化再建の道を探りました。彼は,文化の根底となるものを
求めて思索をし続けました。
ある日患者の治療のために赴く途中でとつぜん「生命への畏敬」という
考えに思い至ります。
次の記述は,清水書院から刊行されている
人と思想31・シュバイツァー・小牧 治,泉谷周三郎 共著 からの
抜粋です。
「生きようとするおのれの生命は,同時に,生きようとする他の生命に
かこまれている。この,およそ生きとし生けるもの(生あるもの全て)の
生命を尊ぶことこそ,倫理の根本である。したがって,生命を守りこれを
促進することは善であり,生命をなくしこれを傷つけることは悪である。
個人や社会が,このような生命への畏敬という倫理観によって支配される
ところにこそ,文化の根本がある…」シュバイツァーはこのように考えた
のである。
「倫理とは,すべての人が,自己の生きようとする意志をおそれ敬うことであり,
同時に,生きようとする意志をもつ他のすべての生命を敬うことである。
それゆえ道徳の根本原理とは,生命を守り,これを促進するものが善であり,
生命をなくし,これを傷つけるものが悪であるということである。
人間は苦悩している他の生命を助けたいと思い,かつ他の生命に危害を
くわえるのをおそれるとき,真に倫理的である。そのとき,人間は,
その生命がどれほど価値があるかなどとは問わない。かれにとっては,
生命そのものが神聖なのである。
それゆえかれは,一枚の木の葉もむしらない。一輪の花も折らない。
一匹の虫も踏みつぶさない。夏の夜,ランプのもとへ虫が飛んできて,
羽をこがして苦しむのをふせぐために,窓を閉めて暑い空気のなかで
仕事をするのである。雨あがりのあと,街路を歩いているとき,迷い出た
ミミズを見つけては,日ざしのために死なないよう,そっと草むらに
運んでやる。虫が水たまりに落ちて苦しんでいるのを見たときは,葉を一枚
さし出して救ってやるのである。
かれは感傷的だと笑われることを気にしない。あらゆる真理は,
それが承認されるまでは,嘲笑のまとである。こんにち人びとは,最下等の
生物のことを心配したり,それを倫理の要求と考えることは,ゆきすぎだと
思っている。しかし人びとは,いつか無意味に生命をなくし,傷つけることが
倫理と両立しないことを理解するときがくるであろう。
倫理とは,生きようとし,生きているものに対してはてしなく拡大された
責任なのだ。さらに思考は,倫理的なものの本質を次のように定義する。
倫理とは,生命への畏敬によって動機づけられた,生命への献身である,と。
生命への畏敬は,ひとたびそれが個人の中に入ると,たえずその人の信念に
働きかける。そしてそこには,やむことのない責任感の不安が生ずる。
なぜなら,世界は,生きようとする意志の闘争に満ちているからである。
わたしたちがさびしい道を歩けば,多くの小さい動物が死んだり,
傷ついたりする。わたしたちの生存を維持するには,わたしたちの生存を
危うくし,傷つけるものをふせがなければならない。そのために,
わたしたちは,家のネズミを迫害し,多数の細菌を殺さなければならない。
このように,わたしたちの生存は,他の生物の殺傷によって成り立っている
のである。
倫理はこのような矛盾のなかで,いかにして自己を主張するか。
通常の倫理であれば,妥協を求めるであろう。だが,生命への畏敬の倫理は
妥協をもとめない。この倫理では,つねに善とは,生命の維持と促進であり,
悪とは生命をなくし,傷つけることである。したがって,この倫理では,
個人は,かれがどこまで倫理的でありうるか,どこまで生命をなくし,
傷つけることの必然性に従属し,それによって責任を負わねばならないか,を
自分自身で決断しなければならない。
われわれは,自己の生存のために悪をなさざるをえない。いやつねに,
悪をなす決断を迫られている。それだけにまた,われわれは,善をなすように
努力しなければならないのだ。」